《慶喜と栄一・次郎長》
大河ドラマ「青天を衝け」で最初に気になったのが血洗島のことば「だに」であった。「しっかりするだに」は浜松の言葉ではなかろうか、それが何故深谷で。ことによると領主が領地替えの時に浜松の人を新領地に連れて来たのかもとインターネットで調べる。すると当時の血洗島の領主は安部氏でありもともとは安倍郡井川の出のようだ。これはヒットと思ったが、しかし遠江や三河ではない。どうやら「だに」は出雲や三河のほか全国各地にあるらしい。最近はインターネットによっていろんなことが手っ取り早く調べられる。さて、9 月に入るとドラマはいよいよ静岡編となった。以下はネットで調べた「たぶんこうだったんじゃないか慶喜と栄一・次郎長」で
最後の将軍徳川慶喜は水戸で謹慎生活を送っていたが、徳川が駿府藩70万石を治めることになると水戸から清水を通って明治元(1868)年7月に静岡の宝台院で謹慎する。一方、渋沢栄一はパリから帰国後の明治元年12月末に徳川昭武の書状をもって慶喜に拝謁・再会する。東京に帰るつもりが静岡に留まることになり明治2年1月に「商法会所」なる商社と銀行を兼ね備えた事業を立ち上げる。「商法会所」は駿府藩代官所跡に置かれ栄一もそこに住まいすることになる。現在の浮月楼である。これまでの江戸時代の事業は個人の資金で商売をしていたが、「商法会所」は駿府藩と有力商人たちが資金を出し合って大きな資本金とし事業運営するという合資会社あるいは株式会社のようなものであった。とすると日本における近代会社経営の始まりはここであったのか。浮月楼は慶喜の隠居所として有名であるがそれより前に日本の近代会社組織の発祥地でもあった。
「商法会所」の主な取り扱い商品は、米不足を常としていた静岡らしく米の買い付けと藩内の茶や漆器の販売、資金の貸し付けであった。米は江戸時代より甲州米が富士川舟運により岩淵・清水・江戸へと運ばれている。富士川舟運は徳川家康の命で角倉了以により開発された歴史がある。
慶喜は明治2年10月に謹慎を解かれて「常平倉」(8月に「商法会所」から改め)のあった紺屋町に移り隠居生活に入る。それからの慶喜は伝えられているように政治には口を出さず、油絵、写真撮影、狩猟、放鷹などに明け暮れたらしい。また投網にも夢中になっていたようで清水まで網打ちに出かけている。
静岡の物産と言えばなんといってもお茶である。「商法会所」にかかわる主な町民もお茶問屋であった。お茶と並ぶ産業を考えていた栄一は当時横浜からの主な輸出品であり実家の稼業でもあった養蚕を考えていたらしい。
さてここで静岡人としては同じ時代に生きていた清水の次郎長がなんのかかわりもなかったのか気になるところである。次郎長と言えば富士川舟運をめぐって甲州の黒駒の勝蔵と出入りまでしている。次郎長ももとはと言えば米問屋の養子、これらと何等かかかわったのではないかと推測される。そこでまたまたネットで調べてみるとヒットしました。次郎長は明治2年12月に慶喜の警護のために付き従ってきた江戸の火消で侠客、新門辰五郎から慶喜の警護役の引継ぎを依頼され引き受けていた。投網に来ていた慶喜とも話す機会があったのではないか。そこでたぶんこうだったんじゃないか劇場。
慶喜「渋沢栄一という者が養蚕も旧藩士にやらせてみてはどうかと申しておるが」
次郎長「しぞーかん衆は権現さまが開ゃーてくれた富士川で運ばれる甲州米を食べてるら。甲州の百姓ん衆はお米とお蚕でやってんだよ。やんならミカンずら、お蚕はやっちゃいけねぇら」
大河ドラマでは描けない懐かしい任侠時代劇の一コマである。
85期 安本 敬