地球に優しいケチ(鈴木明徴)

私の子供の頃は終戦直後の時代で、生活は極めて質素だった。米が無い時もあり、チラシを綴じてノートに使ったりした。いまの高齢者には当時の習慣を実践する者も多い。

このケチは家が貧しかったし、国も貧しかったことからくるものだったが、やがて高度成長期となり、驚くほどの物資が出回るようになり、豊かな気持ちに満たされた反面、資源の無駄使いに対し厳しい反省も生れた。最近経済が世界的に不況となり、物がダブついてくると、改めて「なんと我々は品物を無駄に作っていたのか」と考えてしまう。

だから当然、物を大切にして資源を合理的に使用する時代がきたと思うが、世界を見るとこれは一個人や一国内だけの問題でなく世界共通のケチを考える時代の様に思う。

今から150年ほど前ドイツのマルクスは富の分配について貴重な学説を説いた。しかしその彼でも当時では、夢にも思わなかった事が一つあった。それは「人類がこうも簡単に地球を食い尽くしてしまうのか」ということだった。マルクスにとって、地球は永遠の宝庫だった。だからこそ彼は富の分配さえうまく行けば、全ての人が無限の豊かさを獲得出来ると考えた。しかし現代の生産力は地球を食い尽くさんとしているのだ。

二十年ほど前の高校社会科教科「現代社会」の教科書にこんなことが載っていた。

ある単元で「地球上に何人の人が住めるでしょう」という問題があり、解答は「全人類がアメリカ合衆国の中間レベルの生活をすれば、17億人。日本のそれなら 27億人。インドのそれなら63億人」多少差別的な文章だが、世界の総生産額を各国の総生産額で割っただけのもので、それでもなんとなく様子が掴めるのである。また別の単元ではこう書かれている。「21世紀に地球には何人の人が住んでいるでしょう」答は 65億人。

前の文と合わせれば、今はもう富を公平に分配しても、インドの中産階級の生活しか出来ない事を示している。そして21世紀になり、幾つかの国の国民はインド中産階級より遥かに良い生活をしている。差し引きで考えれば遥かに悲惨な生活を送る国民が当然出てくるはずなのである。

今地球上は経済的差別だけでなく、地下資源や森林資源の枯渇の問題が起きはじめている。この大不況の折り、なかなか言いにくいことではあるが、必要以上に大量に作って捨ててきた、その無駄に支えられてきた経済のやり方は、もう無理ではないか。生産物を慎ましく、無駄なく利用することで、地球資源が保護されるのではないかと思うのである。今迄は貧しいがゆえのケチであったが、これからは地球に優しいケチで生きるべきではないか。そんなことを思う昨今である。

(鈴木明徴先生が50代後半に執筆されたもの。発刊された『週刊メイチョウ』未収録)