ボールペンの思い出(鈴木明徴)

今私の使っているボールペンは、もうすぐインクがなくなってしまう。

近年、私はボールペンのインクを最後まで使うことに異常な関心を持つようになったがこれは決して戦中派のケチ精神でもなければ自分の性格からでもない。

ボールペンに対するささやかな思い出が、私をそうさせるのである。

前任校に13年いた私は、教科課程の切り替わりといった事情などを除いてずっと1年生の授業を受け持ってきた。

この学校では永年、授業指導学年を担任するという習慣があったため、私の担任もずっと一年生ばかりであった。

生徒というものは現金なもので、一年生の時どんなに面倒を見ても、卒業してから学校をたずねて来た時には、卒業時のクラス担任の所へ行ってしまう。それを横目で見ながら淋しく思ったものである。 そのため、1回で良いから3年生を受け持ちたい、進路の相談や、卒業式の世話をしてみたい、といった気持がだんだん強くなり、そんなことをつぶやいたのが上層部に伝わったのか、12年目にして初めて二年生の担任になったのである。 あとから伝え聞いたところでは、今までのような担任制では、2年部は毎年修学旅行の世話ばかり、3年部は進路の世話ばかりなどというように行事などの負担が先生によって非常にかたよるので、その負担を均等に…という配慮だったようであるが、その時は理由などどうでも良く、三年まで持ち上がれるということで、飛び上がるほどうれしかった。一年間、ともかく新鮮な気持で頑張ったことを覚えている。 そして、その2年生としての1年間の総決算である修学旅行が3月に行われた。 奈良から京都へ、そして帰静を明日に控えての京都自主研修日、教員は1日中ひまである。生徒の尋ねそうな所を何か所か先回りして、宿舎へ着いてロビーでボサーっと座って生徒の帰りを待つうちに、こいつらが三年になった時、何か励みになるようなものを持たせることができないだろうかと考えた。 そのうちにちょっとしたアイディアを思いついたので、また外に出てすぐそばの文房具屋さんに寄り、ボールペン50本とインデックス(口取り紙)を買って帰り、インデックスにクラスの生徒名を一人ずつと、祈健闘と書いてボールペンに巻きつけておいた。 さてその夜、外出から帰った生徒全員を、点呼と称してせまい一室へ集めた。当時は3年になった時文理に分かれたため、このクラスがこれで解散することは分かっていた。

そこで別々の道を歩むことになろうとも、このクラスのことを思い、勉強に頑張ってほしい…と一言述べて、一人ずつにボールペンを渡した。

そして「良いか!ボールペンのインクは、ヤマナシの足(註1)のような状態からメイチョウの足(註2)のようにすることが進歩なのだ。」と叫ぶ。

註1…実にみにくく長い、ということを表現する時にしばしば使われている比喩。
註2…適度に美しい短さを示す比喩。時に、何もないという場合に誤用する者もある。

昭和52年4月、一緒に静高を離れ新設の西高に着任された山梨先生(左)、石原先生(中央)と鈴木明徴先生(右)


生徒は納得する。そこでますます調子づいて、「お前達がこれを使ってしまったら、かわりをオレの机の上に置いておくから遠慮せずに持っていけ!オレの資産から考えれば、こんな程度のことではビクともしないからな。」 生徒の目は、ギラギラと輝いた。そのせまい部屋にはムンムンとした熱気が燃えたぎった。

口数こそ少なかったが、心に期するものを持った生徒も多かったようだ。

新学期が来て私は3年生に上った。はじめて卒業生を送り出すことができる…。私は新しい体験に興奮した。

新しいクラスは38HRだった。皮肉なことに、文理コースに分かれてしまったために、肝心のボールペンを渡した生徒は、わずか3名しかいなかった。

そこでまた、名前入りのボールペンを用意してこのクラスにも渡した。授業の時に、同じダジャレを次のクラスにも使うようなうしろめたさを感じたが、なんといってもこのクラスこそが、これから一年間付き合う自分のクラスである。それに一人でも多くの三年生が燃えてくれればこんなすばらしいことはない。 そこで、なにもなかったような顔をしてボールペンを押しつけたのだ。その3名の冷かしげな顔。他人を暗殺したくなったのはこの時だけである。

しかもその時の一人はバスケット部だった。こうなったらやけくそだとバスケット部員も集めて同じことを言った 。そいつは笑いを噛み殺して三本目をもらっていった。

さあ、それからが大変だった。1か月くらい経つと、使い切った者達が次々と職員室に現れて、机上の鉛筆立てに差し込んであったボールペンを我も我もと持ち去っていった。

二本めからは不特定なので、氏名の代わりに「あと一点!」とか「ここから勝負」とか「苦しみの向うに勝利あり」といったスローガンを巻きつけた。

これもけっこう生徒にはウケたが、いろいろと考えつくのが大変で、同じことを書いておくと「これはこの前あったね」などと嫌味半分に選り分けて持っていく奴もいた。

学校のそばに昔から親しくしていた文房具屋さんがいた。

四月から急にたくさんのボールペンを買いに行ったので、その主人が興味を持ってくれ、事情を説明したら一本につき十円引きにしてくれた、また、芯だけをかえることも教えてくれたが、使い切ったボールペンを生徒が記念に保管してしまったために古い方を返してくれず、入れ替えはあまりできなかった。 使ったボールペンの束を大学入試へ持っていったと伝えてくれた母親もいた。

そんなことでこの学年はボールペンがひそかなブームになった。私とクラスもクラブもまったく関係ない生徒までもが職員室の私を尋ねて、何故くれないのかと言った。無論、すぐその場で仲間となった。なかなかインクが終わらないのをくやしがって、ザラ紙にグシャグシャ書きをして終わらせたと告白しながら新しいのを持っていく者もいた。 そして一年、皆それぞれ希望した進路へ散っていった。そして私も、彼等の進路の総括もせぬままに、同時に新設校に移り、現在にいたっている。

あれから六年、あの学年の連中からはほとんど音信もない。

あの学年の進学成績がかなり良かったということを風のたよりで知ったのだが、私のボールペンのそもそものねらいがそこにあったにもかかわらず、そんなことにこだわらなくなっている自分を発見した。 どこへ行っても良い。音信がなくても良い。あのボールペンをにぎりしめた時の明るく燃えたまなざしを持って、一生を前向きに突き進んでくれさえすればそれで十分なのだ。

そして彼らはきっとやってくれるし、今もきっとそう生きてくれているに違いない。

ボールペンを使うたびに思い出す、そして私自身もまだまだ頑張っていかなければと心に思うのである。

今使っているボールペンのインクも、あと5ミリで終わりである。