静岡における徳川慶喜

その家臣渋沢栄一(その3)

慶喜公の生活

美賀子夫人と2人の側室、子供は21人、その他に一橋慶喜の頃のお妾・芳がいた。芳の父親は江戸の侠客新門の辰五郎。彼は娘とともに静岡へ来て慶喜公の警護の奉公をしたが、まもなく娘と一緒に東京へ帰ることになり、山岡鉄舟の取持ちで親しかった清水次郎長に、その後を託したと伝えられている。

慶喜公は政治的野心を全く持たず、潤沢な隠居手当を受けて写・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキさん」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。一方で旧幕臣の訪問を受けても栄一など一部の例外を除いてはほとんど会おうとせず、共に静岡に移り住んだ旧家臣達の困窮にも無関心で、「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかったと伝わる。

慶喜公の評価が分れるポイント

  • 大政奉還の功績

一番の功績が大政奉還。慶喜公が大政奉還しなかったら激しい内乱が起きて、外国からの介入と侵略をもたらし、植民地になっていた可能性がある。鳥羽・伏見の戦いの後に、フランスは幕府に再度戦うことを要求している。

  • 鳥羽・伏見の戦いでの逃亡

幕府軍は薩長軍の3倍ほどの勢力があり兵器も整っていたが初戦の失敗で敗れ、慶喜公自身が戦わずに江戸に逃げ帰った行動に批判が集まる。評価を著しく下げている要因がこの一点にある。

慶喜公を支えた家臣・渋沢栄一

慶喜公には渋沢栄一を世に出したという大きな功績がある。幕末迫った頃、慶喜公は栄一を引き上げて留学させている。栄一自身も慶喜公に恩義を感じ、慶喜の名誉回復のために『徳川慶喜公伝』を出版する。

慶喜公の元代官屋敷を訪問した人を解説した『慶喜邸を訪れた人々?「徳川慶喜家扶日記」より』(前田匡一郎編著)には、徳川宗家の徳川家達や勝海舟、慶喜家の家扶だった新村猛雄とその養子・新村出などの他に渋沢栄一がしばしば訪れた記録があり、そのほとんどが「御逢有之」でたびたび食事をともにして、他の訪問者との対応の違いがはっきりしている。政治向きの話は一切なかったと云われている。

東京へ戻った徳川慶喜

明治30(1897)年、30年ぶりに東京へ戻って巣鴨に住む。翌年、皇居にて明治天皇に拝謁。明治34(1901)年、小石川区(いまの国際仏教学大学院大学)に転居し、ここが終焉の地となった。

明治35(1902)年には公爵に叙され、貴族院議員に就いて、35年ぶりに政治に携わることになった。

明治43(1910)年、七男の慶久に家督を譲り、隠居。3年後の大正2(1913)年11月22日、感冒にて死去、享年77(満76歳5)。

エピソード

明治天皇が慶喜公と会った直後に伊藤博文に語った言葉が伝わっている。「今日やっと罪滅ぼしが出来た。何しろ慶喜が持っていた天下を取ったのだからな。慶喜も酒盛りしながら『お互い浮世の事なので仕方ない』と、言って帰った。」

※特集の取材のあと、浮月楼の久保田耕平社長にお目にかかりました。静高113期43歳、昨年、社長になったばかり、爽やかで気鋭のお人柄に感銘し、コロナ禍で難しい世の中、この若い経営者に頑張ってほしいと、応援したい気持ちになりました。(紺屋町にて)

77期 栗田 收司

慶喜公の狩猟姿 明治20年静岡市七間町徳田撮影(松戸市戸定歴史館蔵)