その家臣渋沢栄一(その2)
明治2(1869)年9月、慶喜公は宝台院での謹慎は解かれたが引き続き静岡に住み、紺屋町の元代官屋敷(今の浮月楼)に移る。慶喜公の静岡移住に伴い、江戸から付いてきた幕臣は八千人とも一万人とも云われ、特に「無禄でもいいからと静岡藩士を望む者が五千人を超えて」(静岡県史)、旧幕臣の優秀な人材が静岡藩に集まった。
静高後輩の曽祖父は江戸から移った幕臣で、慶喜公と親しかった。後輩の母親が聞き取った手記には、「その時に、曽祖父が千人の移住者の頭となったので、家族と手回り品だけ同船して、大きい家財道具などの荷物は別の船に乗せたが、その船が海賊にやられたり嵐に沈んだりして、荷が届かなかった。」と記され、敗者撤退の悲壮さを物語っている。
私の中学生の時の先生は「静岡の言葉は江戸から移住した多くの幕臣の言葉だから、これが日本の標準語だ」と言っていたが、そんな話は静岡の友人・知人からもたびたび聞き、私も単純に誇りに思っていたものである。
慶喜公への拝謁を終えた栄一も静岡に留まり、銀行と商社の機能を持つ「静岡商法会所」を設立し財政の基盤づくりに貢献した。
資金繰りが苦しかったお茶農家に貸付の支援をしたり、江戸から駿府についてきた幕臣たちに牧之原台地に茶づくりを勧め、現在に至る特産品である「静岡茶」発展の礎を築いた。
その頃、東京では新政府ができて首脳陣は揃えたが、田舎大名の家臣では国政を回しきれず、静岡藩の優秀な人材を東京に戻すことが進められていた。栄一もその一人で、彼の才覚に目を付けた新政府に召し出され一年足らずで静岡を去り、新政府においても重用され大蔵少輔まで上り詰める。
この後の活躍は大河ドラマや諸論にゆずるが、栄一は明治6年5月に役人を辞し、経済人として活躍する過程で静岡の慶喜公のもとを何回も訪れ、信頼関係を深めてゆく。
77期 栗田 收司
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