その家臣渋沢栄一(その1)
40年余り務めた会社の仲間との勉強会で、「君は静岡なのだから故郷のことを話せ」ということになり、「静岡における徳川慶喜」を話す機会があった。その年の大河ドラマ「西郷どん」では、不評価の存在だったので、名誉を挽回したい気持ちもあった。この時に慶喜公と渋沢栄一の深いつながりを知った。
慶喜公は尊王思想の強い水戸藩主の七男、のちに英明さを見込まれて御三卿一橋家の当主となる。一方、栄一は今の埼玉県深谷市の豪農の生まれ、領主の理不尽な強要に納得できず、反骨精神をもって江戸へ出て尊王攘夷の意思で倒幕運動に加わる。
しかし、元治元(1864)年、運命はこの二人を一橋家当主と家臣の立場で結び付け、栄一は一橋家の財政を立て直し、深い信頼を得て出世街道を進む。
時は流れて慶応2(1866)年、慶喜公が第15代征夷大将軍になると、栄一は幕府陸軍奉行支配調役という幕臣になった。翌年、慶喜公の弟・昭武公(民部大輔)の随行員に抜擢され「パリ万国博覧会」に向い、数年間はパリに留学することになっていた。しかし、パリ滞在中に「大政奉還」「鳥羽・伏見の戦い」が起き、慶応4(1868)年、徳川幕府は崩壊。慶喜公は寛永寺、水戸を経て、7月に静岡藩の宝台院での謹慎生活に入る。
昭武公一行は明治新政府の命令で急遽帰国し、栄一は同年12月、昭武公の親書を携えて慶喜公に拝謁すべく東京を発ち静岡へ向かう。その時、栄一は慶喜公の大政奉還の不甲斐なさとその後の薩長との対応に不満を持っていた。その拝謁した場面を、『徳川慶喜と渋沢栄一 最後の将軍に仕えた最後の幕臣』(安藤優一郎著)から引用する。
「明治元(1868)年12月23日午後10時、フランスから帰国したばかりの渋沢篤太夫(栄一)は静岡城下の宝台院の一室で、主君徳川慶喜との拝謁の時を待っていた。(中略)栄一は後年、その時のことを次のように語っている。時に栄一は29歳。慶喜は3歳年上の32歳、二人が再会を果たした部屋は粗末な六畳ほどの部屋。とても、かつての将軍が拝謁を受けるような空間ではなかった。
公の幽居宝台院に出たのはあたかも夕暮の事で、行燈の前に端坐して公の御出座を待って居る間に、侘住居の御様子を見廻して、昨年御別れ申した時とは実に雲泥の相違と、そぞろに暗涙にむせび居るところへ、公は座に入らせられたので、一通りの御機嫌を伺い畢ると、覚えず予ての宿疑が口に出て、政権返上の事、またその後の御処理は如何なる思召であらせられたか、如何にしてこの如き御情なき御境遇には御成り遊ばされたか、御尋ね申したところ、慶喜公は栄一の言葉をさえぎって、重い口を開いた。
公は泰然として、今更左様な繰言は甲斐なき事である。それよりは民部が海外における様子はどうであったかと、話頭を他に転ぜられた。
こうして、慶喜との再会の時は終わった。」(太文字は渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』)