女子一期生・荒谷じつ子さん 慈母の笑顔は永遠!(77期・清水雅尚)

女子一期生、68期の荒谷じつ子さんが2024年11月15日に逝去されました。

自宅が近かったこともあり度々お宅を訪ね、親密にお話を伺うことが出来ました。

荒谷さんは関東同窓会には第1回総会から参加され、「開会宣言」を度々されました。 ただ全てが順調というわけでもなかったようです。 新日本証券の箱根寮でのこと、大石会長が人事について出席者に提案した際、不服として怒号が飛び交い「まるで別の世界だった。 静高紳士なのに…」と嘆いておられた時もありました。

総会・懇親会、各期幹事会は勿論、博物館・美術館巡りや毎年のゴルフコンペにも同行され、懐かしく思い出されます。 東北旅行では71期の米川克己氏の広大な八幡平のペンション(イーハトーヴ)を拠点に松川温泉や中尊寺などに行き、楽しい思い出となりました。

ゴルフも毎年行われ、箱根カントリークラブなどでの楽しかったコンペが思い出されます。 私も各イベントで荒谷さんはじめ多くの先輩と交流し沢山の思い出を共有しました。

特に荒谷さんとご一緒した平成2(1990)年のゴルフコンペでは一組前にプレイしていた巨人軍の長嶋監督や金田正一投手たちと会話が出来て 印象深いです。 誰とでもすぐ打ち解ける荒谷さんは長嶋さんに「調子はどうですか」と笑顔で尋ねると長嶋さんは「イヤー最近は飛ばなくなりました」と 笑って答えていました。 隣にいた私が「長嶋さん、今巨人軍のフロントにいる石山建一君は私たちの高校同級生です」と伝えたところ、長嶋さんは驚いて「そうですか。 大変お世話になっています」と笑っていました。

ゴルフ会で遭遇した長嶋茂雄氏(中央右)、金田正一氏(中央左)と。
長嶋氏の右隣が荒谷さん、右から2番目が筆者。



荒谷さんたち68期が静高(当時城内高校)に入学したのは昭和24(1949)年4月。 学制が変わる戦後の混乱期で女子一期生と呼ばれるとは思ってもいなかったようです。

以下は荒谷さんが私に語ったことです。

▽せっかく静高に合格したのに、地区割というのがあり、1年目は城北高に行きました。 男子生徒も何人か城北高に入学しました。 ところが、1年後に、静高に入学した女子生徒が「城北高に変わりたい」、逆に城北高に入学した男子生徒の何人かは「静高に行きたい」と 希望しました。翌年には城北高の男子生徒はすべて静高に移動。他方、静高に入学した女子生徒の何人かは静高に残り、 同時に城北高に入学した女子生徒の何人かも静高に移りました。 この結果、女子生徒一期生として8人と言うことができると思います。

昭和24年4月入学の68期から男女共学になったが、一部は城北高校に通学していた。
荒谷さん達は2年生より静高(当時城内高校)に通学した。



▽当初は毎日のように女子生徒のいる教室に男子生徒が覗きに来ました。 その頃は男尊女卑の時代、「随分でかい女だ」などとひどい言われ方もされました。 でも男子生徒の中で勉強できたことはとても実り多かったと思います。 その後の人生でも、特に関東同窓会などの行事などを通じて人生を豊かにしてくださったことに感謝しております。

静高卒業で一番良かったことを尋ねると「結婚の際、主人からあの静高を出た女性なら間違いないと言われたことです」と、 幸せそうにお話をされていました。

10 代から運命を共にした女子一期生、
特に関東在住の宇田貞子さん、酒井定子さん、杉山和子さんとは、卒業後から
晩年まで長く交流が続いた。



荒谷さんは、関東同窓会のスタートから参加され、長年、同窓会の発展にご尽力されました。 会場が日本プレスセンターに移ってからも、各種イベントに参加され、終了後もラウンジで楽しそうに懇親しておられました。

今静高の女子生徒は4割超。在学中も卒業後も活躍しています。 その礎を築いてくださったこと、本当にありがとうございました。 荒谷さんのご家族からお借りした写真はすべてカラー。会報は白黒写真で残念ですが、どれも輝いている荒谷さんが鮮明に甦ります。 慈母の様だった荒谷さんの笑顔は永遠に。

R.I.P.