関東同窓会ができるまで(79期・上田尚亮)

会報99号に関東同窓会の50周年の記事が出ていましたが、設立前の話はなかったので筆を執りました。創設にかかわった人間は私だけになりました。 もう50数年前のことになります。

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東上野の「大雄」応接室にて編集打合せを行う54期・庵原悌次氏
(左)、60期・上杉重吉氏(中央)、53期・月見里得知郎氏(右)。
同期会などの集合写真が多い中、このような作業の記録は珍しい。



当時30歳前の私は、先輩から「お前ブラブラしているなら手伝え」と言われ、上野駅前の大雄(奥野孝社長・53期)へ行きました。 事務局は社員の山田さん。お世話になりました。彼がいなければ何も出来ませんでした。凸版印刷の柳川太郎さん(42期)、 会報担当の印刷業・庵原悌次さん(54期)そして私と、4人が顔を合わせ、初めの頃はこれで同窓会が出来るのかと 心配するくらいのんびりしていました。そのうちに会長は宮澤次郎さん(42期)、副会長は柳川さんに決まっている事を知りました。 実際の実務は月見里得知郎さん(53期)がキヤノンを退職してから加速していき、第1回の支部結成総会開催に至りました。

会議は奥野孝さんの弟の奥野広さん(58期)が稲荷町で設計事務所を持っていて主にそこで議論した記憶があります。 鈴与の先代の鈴木与平さん(42期)が100年祭の資金集めのために同期生に呼びかけて、東京で同窓会を立ち上げようとしているとのこと。 旧制中学の雰囲気が満載の会でした。42期は甲子園優勝の年で団結が強いことは有名な話です。

以下、太郎次郎の話です。東大を出てから満州国の官吏になった宮澤次郎さんが敗戦後、静岡の北街道沿いの外堀の上で商売をしていたそうですが、 同期の柳川太郎さんが凸版に入社させたそうです。 私が出会った頃、宮澤さんは凸版ムーアの社長で、日々忙しそうでした。 凸版の専務を辞めて顧問となった柳川さんとは3、4年のおつき合いでしたが優しいジェントルマン、謙虚で教養のある人格者でした。 先輩方はエリート集団で、この会は我々の代になったらどう付なるのかと不安を感じました。 いつ総会をやるか? 機関紙の創刊号は? いろいろなことが少しずつ進みました。 現在の会の盛隆はさすが静高と思います。 当時、運営に関わる女性は皆無でした。 旧制中学の会員は、「支部ではないぞ、独立の同窓会だ!」と言わんばかりで、本部は何者ぞとの心意気でした。 柳川さんが、人間国宝・芹沢銈介先生(28期)のところに創刊号への寄稿を頼みに行ったのですが断られました。 芹沢先生が文章を書かないのは有名な話だったそうです。 その代わりデザイン文字は使って良いとのことでした。 国鉄総裁、下山事件の下山定則さんは34期だということも知りました。 野球部の先輩でした。 私は、実家が近所だった三井物産・前田鉄三さん(32期)、ホンダの川島喜八郎さん(52期)、日本レーベルの岩井平一郎さん(57期)と懇意にしていただき ました。 皆、後輩には優しい先輩たちでした。ふるさとの友はありがたきかな!

その後、2010年から八牧浩行さん(82期)が会長になって旧制中学の雰囲気は消え、母校も女性が半数に迫るようになり、関東同窓会も 女性がいなくては立ち行かなくなりました。大改革です。 立派な会報など自慢できる事です。そうそう、会費を払わない会員にも送付する伝統は創立以来のものです。 八牧さんのお陰で日本記者クラブを使えるのは最大の強みです。

関東同窓会は永遠に!!