男女共学の始まり(静中静高史より)

男女共学の始まりについての記録がある。

「25年4月、新通学区制の実施によって城北高校に家庭科が設置され、女子高校としての性格が明確になったことが前年の学区制に基づいて城北高校へ入学していた男子生徒をいづらくした。また一方城内高校に入学した女子生徒の中にも、女子高校への転学を希望するものもあった。『わが校のあゆみ』(県立静岡城北高校創立65年記念)によると、

  • 市内の新制中学を卒業して入学して来た人たちの中に、男子生徒が18人ほど加わっていたのです。そして、2クラスに9人ずつ別れて配置されたのです。……もともと男子に向いた設備など、トイレからして十分に整っていない折でしたから、たださえ居心地がよくない処へもってきて、口達者な女生徒が事ある毎に理路整然とまくし立ててきます。人数からいっても不利。今から考えても、男子にとっては、気の毒な一年だったのです。(中略)

とあり、男女共学の目的は達せられそうもなかったのである。かくして、両校生徒の交換となり、城北男子生徒はそっくり、城内へ編入してきたのである(『職員会議録』昭和25.4.21)

さて、城内高校では、25年度に41名の女子生徒が入学したことから、男女共学制もほぼ確立した。

城内高校に入学した女子生徒の中にも女子高校の性格を持つ城北高校に行きたい者もおり、かくして城内高校と城北高校で生徒の交換となり、城北男子生徒はそっくり城内高校に編入してきたのである。

この初期の男女共学の状況を、当時生徒として体験した4人の女性、荒谷じつ子 (旧姓竹下)、宇田貞子(〃土屋)、若山光子(〃立川)(以上68) 、金田絢子(〃田口) (69)、の回顧談としてまとめたのが『静高の男女共学の初期』(昭和47.2.5東京・真杉髙之(44)がまとめる)である。それによると、

共学のプラス

  • 68期の3人は、共学のプラスを共通して認め、また男性の方が女性より優れている点を感じたという。だから、そういう能力の優れた男性の多い中で勉強できたのは、確かに得だったと言う。男性に大事にされた記憶が強く残っている事も3人の共通した思い出。クラブ活動の時なども男性に親切にされた。卓球など男性と練習をともにしたことで実力がついた。(中略)男女共学して良かったと思うのは社会人となっても痛感している。(中略)

「静高卒」と過大評価

  • 結婚談のとき、東京の人との話だったが、静岡県で一番良い高校を卒業しているということで、話は一ぺんに順調に進んだ。とにかく静中―静高のネームバリューは高い。しかし逆に「男の学校の静高へ行くの」と詰問されたみたいな感じをうけたこともある。女性らしい女性になれない、お転婆になるぞといわぬばかりの眼でみられたこともなくはない。(以降略)

以上が、静中静高史に記載されている。ところで、68期から5年遅れる事の、小生の73期は、380名の同期生の中の女性は12名であった。同期の遠山敦子(旧姓小沢)によれば、「男子校に入ってしまったのだと、孤独な日々でした」との事であった。現在は男女半々の生徒数との事ですが、貴方の入学期では、女性は何人でしたか。

★静中静高史に記載されている内容は、史実に基づいたものとして編集されましたので、その掲載文章から引用したものです。静中静高史を購入されていない方が多いと思いましたので、抜粋したものを関東同窓会報に掲載されたら、お役に立つとの思いです。 (山梨由記・73期)